空海論一覧
<注> ・価格は概ね、発行時のものである。
・頁数は論考の頁数であって、必ずしも本の総頁数を示すものではない。
・雑誌『墨美』『書品』『書のフォーラム』『書に遊ぶ』は廃刊となっている。


1.「空海 灌頂記」
  (『墨美』 260号。墨美社、1976.4刊。 A4−86p. 1500円)
 「灌頂記」は、空海から灌頂を受けた人々の名簿でしかないが、人に見せることを意識しないで書かれたためか、空海の肉声がそのまま封じ込められているような魅力的な書。
 接写拡大写真を多用して「灌頂記」に肉迫した唯一の本だが、飯島にとっては空海研究 の端初の論考。


2.「伝空海書蹟再検討」
  (『墨美』 276号。墨美社、1977.12 刊。 A4−66p. 1500 円)
 空海の書と伝承される63点の書から4点を選び、その真偽を検討したもの。「越州帖」(与越州節度使請内外経書啓)は本書で初めて全文紹介され、真蹟として発表された。
「国使帖」(与本国使請共帰啓)「狸毛筆奉献表」「千字文断簡」も、通説を覆し、真蹟と論証された。


3.「伝空海書蹟再検討・破体心経」」
  (『墨美』 280号。墨美社、1978.4刊。 A4−66p.1200円)
 楷書、行書、草書に隷書を交えた破体書法に、更に梵字の書法を加味した曼荼羅のような書。接写を多用して肉迫、本書の真貌を活写、通説を覆し、真蹟と論証した画期的な本。般若心経を密教と主張する空海ならではの、密教の心経を書で表した傑作。


4.「空海の書 再発見の旅」
  (講談社ムック『日本の書』。講談社、1978・7 刊。A4−18p. 2000円)
 室戸岬、善通寺、西安に飛んで写した空海の風景をカラーで交えながら、人間空海の実像を追う自らを重ねつつ綴った空海論。講談社の名物編集長・内田勝氏の推薦を得てムック巻頭を飾ったもの。


5.「空海真言七祖像賛 名号・題賛」
  (『墨美』 283号。墨美社、1978・8 刊。A4−94p. 1800円)
 空海は雑体書法と破体書法により、書で密教を表現しようとした。その華が飛白で、本書は飛白と雑体書を考察した、最初で唯一の本。


6.「真言七祖像研究(二)・行状文」
  (『墨美』 285号。墨美社、1978・11刊。A4−108p. 1900円)
 原本の絹の剥落が著しいのが惜しまれるが、空海が渾身で書いた傑作。これを便利堂撮影の精妙な写真によって大型画面で全文を再現、かつ錯綜する諸説を検証する。


7.「空海書 宝厳寺本請来目録」
  (『墨美』 293号。墨美社、1979・8 刊。A4−146p. 3000円)
 この「請来目録」については空海の真筆でないという説が通説となっていたが、主唱する比較書像学を駆使して真蹟と論証したもの。「請来目録」が拡大写真を含め、全文精印された初の本でもある。


8.『弘法大師書蹟大成――空海の書』
  (全5巻・別巻3。東京美術、1979・6刊。本冊・B4線装本・総計518p. 別巻・
B5版上製本・総計818p. 148,000円)
 大戦後、2回出版された空海の書蹟全集の一つ。編集の中枢は、駒井鵞静・飯島太千雄によって行われ、全518葉の写真の約半分は飯島が撮影したものによっている。
担当解説――「越州帖」「千字文断簡」「破体心経」「篆隷万象名義」「飛白十如是」


9.「空海の書・その実像について」
  (『弘法大師書蹟大成』別巻「研究篇」。東京美術、1979・6刊。B5−143p.)
 別巻の半分以上を占める長大な論考であるが、そこでも明言しているように、空海研究に着手して程ない頃の未熟さが露呈しており、今日的価値は乏しい。


10.「御物篆隷千字文」
  (『書品』 265号。東洋書道協会、1982・4刊。B5−82P. 1000円)
御物の手鑑に貼られている楷書と篆書で書かれた全16行の千字文の断簡は未公開の新資料。これを撮影。その篆書に独特の雑体書法が加味され、それが空海の編纂した字書
「篆隷万象名義」の篆書と共通していることなどから、空海の真蹟と推論したもの。


11.「施福寺所蔵空海尺牘」
  (『書品』 267号。東洋書道協会、1982・8刊。B5−38p. 1000円)
 本書はごく一部の研究者には知られていたが、江戸時代の模本とされて来たもの。小稿では比較書像と本文研究によって、紛れもない空海の真蹟と論証した。「風信岾」の3通に次ぐ、第四の書状が出現したことになり、本書は「中寿帖」と命名された。最澄が空海に宛てた「久隔帖」への返書の性格があり、二人の交際史の頂点を示す新資料である。


12.「空海・最澄交際の軌跡」
  (『書品』 268号。東洋書道協会、1982・10 刊。B5−41p.1000円)
 空海と最澄の間には、33通もの書簡が交わされているが、そこには疑問のものがあり、かつ過半は年紀を欠き、年代不明である。小稿は、それと関連する書簡を合わせ、計45通を解読、編年順を推定し、二人の交際の実態を探ったもの。前項の「中寿帖」の背景も解明している。


13.『空海大字林』
  (講談社、1983・3刊。全2巻。B5−1638p. 39800円)
 空海の書30点を字典化し、収録した6万字から4万字を選んで編んだもの。原稿の多くは8年に及ぶ大型カメラでの撮影行で自ら撮った実大写真なので、その書の濃淡や筆勢を正確に再現すべく、全字をスキャナー製版した。内外のあらゆる字典で最も書を正しく再現した美しい字典。70頁の口絵と 別巻・245頁の解説がついている。「総論」は、空海の書・空海の書の編年整理・空海の書の展開。「解題篇」は、28点の書蹟についての各個解説。「研究篇」は、仁王経疏の研究、金剛童子法の研究で構成されている。


14.「空海真蹟の控文の出現で判明した『性霊集』の成立事情」
  (『密教文化』 149号。高野 山大学密教文化研究所、1985・1刊。A5−48p.)
 空海の遺墨のうち、「越州帖」「国使帖」「狸毛筆奉献表」は、草稿でも浄書本でもなく、空海の自筆の控文であることを、小稿でまず論証する。この3書は、空海の文を弟子の真済が控文をとって編成したとされる『性霊集』に収められているが、空海自筆の控文が遺されていたという事実は、『性霊集』が真済の企画と編集で成ったとする定説に疑問を生ぜしめる。3書の本文研究や『性霊集』との校合などを通じ、定説を覆し、『性霊集』は、不空の文集「不空表制集」に触発された空海が遠大な構想で企画し、初期に於いては自らも控文をとったものと推論した。


15.「空海請来目録は最澄の真蹟」
  (『書苑案内』17号。西東書房、1987・3刊。A3−3p.)
『墨美』 286号(1978・12刊、墨美社、A4−84p. 1700円)で「新出・空海書請来上表」と題して飯島が発表した施福寺所蔵「請来上表」は、空海ではなく最澄の書であるという細貝保夫氏の説(『書論』23号、1986年11月)が出されたのを受け、細貝説を検討、その説を左袒する旨を発表したもの。


16.「伝空海書 仁王経良賁疏」
  (『書品』 278号。東洋書道協会、1989・8刊。B5−46p.1000円)
 本書3巻は、勧修寺に秘蔵されてきたものだが、これには仁和寺所蔵「三十帖冊子」と宝厳寺所蔵「請来目録」と同じ梵字印が、同様に多数捺印されている。梵字の印文は空海の密号を表しており、3書が空海の真蹟か所蔵本であった可能性を示している。これを書像として比較検討し、空海の真蹟である可能性を推論したもの。


17.「密教を書であらわす」
  (『書道研究』28号。美術新聞社、1989・9刊。A5−12p. 口絵16p. 780円)
 空海が生涯を通じ、書で最も表したいと追い求めた世界は、決して、代表作ともてはやさ れる「風信帖」でも「灌頂記」でもない。書で密教を表すこと、そこに尽きる。そのために研究、開発されたのが空海の破体・雑体書法であると推論したもの。口絵には「中寿帖」の写真と「空海の雑体書」を図示した。


18.「風信帖と王羲之の書法」
  (『墨』 104号。芸術新聞社、1993・10刊。B4−8p. 2300円)
空海は王羲之を学んで書法形成した。「風信帖」3通と王羲之・顔真卿・孫過庭の同字を比較し、その書法を分析したもの。


19.「書体大百科字典」
  (雄山閣出版、1996・4刊刊。B5−940p. 28000円)
 日中の資料 682点より雑体書約四万字を収録、その内約2万5千字を精選し影印した、初めての造形書体字典。書体は141種に及び、楷・行・草・篆・隷しか書体として認識しなかったこれまでの漢字・書体・書道史観を根底から覆すもの。『空海大字林』では手薄だった空海の雑体書資料も網羅された。


20.「空海の闕期の咎」
  (『日本歴史』 584号。吉川弘文館、1997・1刊。A5−4p. 870円)
空海の人生には三つの空白期間があり、謎となっている。その三番目の空白、つまり帰国後3年間の不明の原因を考察したもの。


21.「空海と遣唐文化」1
  (『書のフォーラム』7号。翠書房、1997・5刊。A4−11p. 846円)
奈良・平安中期までの日本文化は、遣唐使によってもたらされた中国文化をいかに吸収するかが、進化の理念だった。その視点に立った時、宗教・文学・書から土木工学や筆造りまで全人的な面で先進的な業績を遺した空海と、遣唐文化はどのような関係にあったかを探る連載の第一回。空海の書法には、東晋の王羲之を基本として、その上で唐の欧陽詢・孫過庭・李?の影響があることを論じた。


22.「空海と遣唐文化」2
  (『書のフォーラム』8号。翠書房、1997・6刊。A4−13p. 846円)
 空海の書法には、その1で明らかにした他に、狂草、章草という唐代に行われた特殊な草書の書法が採り入れられていることを論証した。


23.「空海と顔真卿」・「空海と遣唐文化」3
  (『書のフォーラム』9号。翠書房、1997・7刊。A4−21p. 846円)
 通説では、空海は中国に渡り、新興の顔真卿の書法に染まり、初めてそれを日本にもたらしたとされる。空海には顔真卿の影響がないことは、『墨美』 260号、『空海大字林』、『墨』 104号などで論証してきたが、ここでは更に別の視点からそれを補強し、かつ顔真卿の書法は、空海の生まれる20年前に日本にもたらされていたことを、奈良末期の遺墨によって実証した。


24.「聾瞽指帰の遣唐文化」・「空海と遣唐文化」4
  (『書のフォーラム』11号。翠書房、1997・9刊。A4−13p. 846円)
 渡唐以前の空海が既に身につけていた文化を知らないと、唐で身につけたものが何であるかも分からない。そこで24歳の折りの出家宣言のための戯曲風文学「聾瞽指帰」を分析したもの。「聾瞽指帰」には、「文選」「論語」など、69点の漢籍と、「維摩経」など27点の仏典の引用がちりばめられているが、書法でも、王羲之を基調としつつも、唐風の新書法や、破体表現、子母体、更には一部の書に鳥書・龍爪といった雑体書と呼ぶ表現主義的な書法を混交していて、既に「空海」の萌芽となっていることを明らかにした。


25.「長安の空海」・「空海と遣唐文化」5
  (『書のフォーラム』13号。翠書房、1997・11刊。A4−14p. 846円)
 長安の空海は、「五筆和尚」と称されて華々しくもてはやされた。この言葉に、長安の空海の実態を解く鍵があるのだが、諸説紛々で「五筆」の意味が分からない。その謎解きに挑み、なぜ空海の書が大唐の人士の喝采を受けたかを解明する。


26.「長安の空海・結章」・「空海と遣唐文化」6
  (『書のフォーラム』14号。翠書房、1997・12刊。A4−16p. 846円)
在唐中の空海の書・「真言五祖像」には飛白と梵字と雑体書法が、「越州帖」には王羲之を基調としつつ、そこに破体・雑体書法が揮われており、これが唐の人々を魅きつけたと知れる。こうした書の分析から、空海は唐文化が最後に咲き誇った半世紀前の玄宗期の文化をものの見事に吸収し、昇華していることが判明した。まさに空海は、遣唐文化の化身のような存在だったのである。


27.「空海書『聾瞽指帰』の重要性」
  (『日本歴史』 596号。吉川弘文館、1998・1刊。A5−5p. 890 円)
 通説では『聾瞽指帰』は、空海の出家宣言を戯曲風に仕立てた『三教指帰』の草稿本で、その上一部の学者は空海の真蹟ではないとしている。これが空海の真蹟であることは、既に『空海大字林』で主張しているが、小稿では、そこに破体・雑体書法が揮われていることなどの書法を分析、これが浄書本であるばかりか、そこに密教者・空海の萌芽を指摘している。


28.「知られざる空海」
  (『書に遊ぶ』5号。クリエイティブアートとまと、2001・3刊。A4−26p.1600円)
「呪術的魅力を秘めた飛白の書」という副題が示すように、飛白の特集号である。初のカラー影印で飛白や、飛白の書法を応用した空海の創造の世界が次々と展開される。


29.「飛白とは」
  (『書に遊ぶ』5号。クリエイティブアートとまと、2001・3刊。A4−8p. 1600円)
 飛白が多様な表現をもっていることを、七つの様式美に分けて説いている。また飛白と雑体書法と、空海の飛白について、新説を展開している。


30.「漢字に遊ぶ・飛白体とその周辺」
  (『書に遊ぶ』5号。クリエイティブアートとまと、 2001・3刊。A4−8p. 1600円)
著名なグラフィック・デザイナーで、印刷博物館の館長である粟津潔氏との対談。古代文字から始まり、甲骨文字、象形文字、雑体書や飛白の魅力へと話が展開する。


31.「空海入唐千二百年に想う」
  (『修美』81号。修美社、2003・1刊。A4−10p. 1600円)
 2004年は、空海が入唐して1200年にあたる。また1997年から、途絶えていた飯島自身の空海研究を再開するにあたり、1976年以来の研究の推移、展開を総括し、合わせて空海研究の向後の課題を明らかにしたもの。なかんずく、「越州帖」と「国使帖」の重要性を説いている。


32.「空海書『聾瞽指帰』考」(一)
  (『修美』82号。修美社、2003・4刊。A4−17p. 1600円)
 空海の24歳の書とされる「聾瞽指帰」は、研究者を悩ませ続けてきた。書は劇蹟といえるほど優秀なものだが、空海の「三十帖冊子」や「風信帖」と書風や書法がかけ離れているからである。また、春名好重氏や細貝保夫氏により真蹟ではないとする否定説が出されているが、これへの反論も行われていない。小稿で飯島は、「聾瞽指帰」と王羲之及び玄宗期の能書・李?(678〜747)の同字を42例にわたって図示し、比較研究した。その結果、空海は王羲之で書法形成しているが、「聾瞽指帰」では、当時のニューモードである李?の書法をとり入れ、李?風に書こうと意図していることが判明した。それが、異風の主因だったのである。それでいて李?風でない書は、「三十帖冊子」と合致していることも実証し、これで積年の問題を解明した。


33.「空海書『聾瞽指帰』考」(二)
  (『修美』83号。修美社、2003・7刊。A4−14p. 1600円)
 まずは、筆蹟以外についての否定説の論拠への反論を展開し、この問題の決着をつけ、次いで、年紀の畏敬に満ちた荘重な表記法から、「聾瞽指帰」が桓武天皇の第三皇子、伊予親王に献上されたことを推論する。また「聾瞽指帰」には、幅1cm前後の空筋が無数に引かれている。この空筋の名称、目的、技法については諸説紛々としているが、飯島は実際にこれを復元して見せ、この問題を解明する。この空筋紙は、勒成紙(ろくせいし)と呼ぶべきもので、いわば宮廷専用箋であった。空海が、敢えて勒成紙を製作して「聾瞽指帰」を書いたのは、これが伊予親王に捧げられたことを傍証するものだ、と結論している。


34.「空海入唐 虚しく往きて実ちて帰らん」
  (弘法大師空海入唐1200年記念、日本経済新聞社、2003・10刊。A5−302p. 2200円)
 空と海……その名の根元的な意味を求めて室戸岬に立つ。あるいは、西安・大雁塔に登り 西方を望んで、玄奘三蔵に重ね合わせて空海を想う――。
 空海研究に30年をかけた書道史家が多くの定説を覆し、いま世に問う新たな空海像。
 入唐までの謎の7年間を解明、稀代の表現者・空海の唐における華やかな姿を描く。
 (帯より)
《定説への挑戦と反証》
定説化している空海入唐直前・三十一歳出家説を否定し、二十五歳出家説を提示。
密教を受法した空海を迎えに、奇蹟の如く入唐した遣唐判官は、実は最澄たちを日本に送った唐使を送り届けるためで、空海はその派遣を事前に知っていたという説の提示。
空海の密教求法は私的意図で、遣唐留学僧としての公務は、三論宗の修学だった。そして任期二十年の留学を二年で切り上げ帰国した任務放棄は、空海の人生を暗転させた。(帯より)
 「空海は、不可思議だ。三十年近く空海を追い求め、三百余枚の小稿によって、その半生をかなり明確に提示し得たと思いつつ、なお不可思議だ。――中略――少年の日、宝物にしていた屋根形プリズムがあった。角の一部が、ぎざぎざになったそのプリズムの触感が、今でも掌中にある。空海は、プリズムではなかったか。眼をあてる面によって、空海は七色の虹に縁取られ、また万華鏡となる。そして、こちらの視線がまっすぐでないと、像は歪んだり、見えなくなる。万華鏡こそ曼荼羅。そう、プリズムは空海曼荼羅だったのだ。少年の日、プリズムはいつでも握られ、汗ばんでいた。」(後記より)


35.「空海における書」
  (『密教の聖者 空海』―日本の名僧4.
  高木、元・岡村圭真/編、吉川弘文館、2003・11刊。A5−19p. 2600円)
 高木・岡村両編者を主軸とし、加地伸行・頼富本宏氏等7名の共著本。僅かな紙幅なので考証はないが、「論点について」「破体という書表現」「聾瞽指帰の雑体書法」「新出の越州帖」「強烈な表現志向」「遣唐文化の化身」「思想表現としての書」の項目に従い、推論している。飯島の空海研究30年の成果を要約し、空海の書の特質、本質を摘出。岡村圭真編者から出色の稿と讃辞が寄せられた、簡にして要の稿。


36.「続・伝空海書蹟再検討? 仁王経良賁疏」
  (『修美』85号。修美社、2004.1 A4−18p. 1600 円)
 山科勧修寺所蔵の「仁王経良賁疏」三巻は、折本3冊に成るが、全巻で81メートルに及ぶ巨冊である。そこには4種の書風が揮われているが、極めて練達の書で、空海にふさわしい秀蹟だが、真蹟と比較すると、一部に空海とは異なる字体、筆法、筆順の字が見出され、16の真蹟説は認められなくなった。また定説では、後世に巻子本に改装されたものとされているが、書誌の精査により、折本に書写されたものと判明、日本最古の折本と判明した。本書には、「請来目録」と「三十帖策子」と同じ梵字印が165顆捺印されており、空海の請来経か献上経のいずれかである。小稿では結論として、天長二年(825)閏七月、空海が宮中で仁王経法を修法、講説した際、新機軸の折本に当代最高の写経生をして筆写せしめ、捺印、上呈したものと記している。


37.「続・伝空海書蹟再検討? 南円堂銅灯台銘は空海の書」
  (『修美』86号。修美社、2004.4 A4−18p. 1600 円)
 奈良興福寺南円堂の「銅灯台銘」は、弘仁七年(816)の年紀があり、古来空海の書と伝承されてきたが、江戸時代後期から橘逸勢説が浮上、現代では空海の書から外され、未確定としつつも逸勢の書として扱われている。逸勢の真蹟として良いのは「伊都内親王願文」しかなく、その可能性を指摘されている書に「三十帖策子第二十九帖」がある。これらと比較検討すると、「銅灯台銘」には、逸勢の要素は皆無であり、空海の真蹟に近似している。鋳造による肥厚と筆法の不鮮明があり、かつ空海の遺墨には楷書作品がないため合致する書は少ないが、少なくとも10例は同筆と指摘できる。更にこの書法は、空海に書法を学んだ伊予親王の遺児・高枝皇子の「河嶽英霊集断簡」や仁寿(853)頃の能書による「円珍菩薩戒牒」に継承されており、空海の書である事を傍証している。


38.「続・伝空海書蹟再検討? 空海と興福寺」
  (『修美』87号。修美社、2004.7 A4−17p. 1600 円)
 これまで空海と興福寺を結びつける確実な史料はなく、空海史でも等閑視され続けてきた。しかし、37で「南円堂銅灯台銘」が空海の真蹟と論証された事により、新たな発想で考え直すべき状況となった。そこで想起されるのが興福寺伝来で空海と称されてきた「金剛童子法」(一巻、前田育徳会蔵)である。これについては、かつて『空海大字林』研究篇で真蹟の可能性を説いた事がある。確かに空海に通ずる点の多い秀蹟だが、その後25年間様々な角度で検討を重ね、一部に空海と異なる筆法・字体がある事が判明した。又、その美学が単純で、表現力に富む空海の書法と距離があるが、「金剛童子法」の内容からして、これを舶載または抄訳せしめた人物は、玄ム・空海・円仁のいずれかと考えられる。卑説は、弘仁四年(813)、藤原冬嗣が南円堂を建立、空海が落慶法要の導師を任じ、金剛童子法を修法、その倶経としたのではと推論する。その傍証として、「興福寺流記」と「七大寺日記」の記事を整合、創建時の南円堂の内陣を復元する。その復元図により、驚くべき事が判明する。正面の本尊・不空羂索観音の背後には、左に玄奘、右に恵果の祖師像が掲げられていたのである。法相宗の興福寺に玄奘は当然として、なぜ空海の師・恵果像があるのか。それどころではない。左右には金剛智・不空・善無畏・一行の真言五祖像が法相宗の祖師像と共に掲げられていた。正面の法相宗祖師像は、玄ムと善殊。二人は、共に空海の母方の阿刀氏を出自とする師弟である。まさに南円堂は、空海ワールドであった。これが驚きでなくて、何であろうか。最澄の本寺は興福寺であり、冬嗣を空海に紹介したのも最澄である。二人の決別へのプロセスが始まったのが、この年の正月であった。


39.「続・伝空海書蹟再検討? 伝空海筆破体千字文考(上)」
  (『修美』100号。修美社、2008.2 ―未完 A4−カラー16・モノ22p. )
 『修美』誌100号記念特集として、「破体千字文」を原寸、オールカラーで初紹介する。博多東長寺に伝来する本書は、これまで全く知られておらず、飯島が知ったのは18年前。ところが実は、明治の日下部鳴鶴、大正の比田井天来が過眼、推賞していたのだが、その後九十余年、誰も着目しなかったというもの。「家給千兵」以後500字を完存する残巻で、行書を主体に、まま楷書・草書が交えられている。料紙は荼毘紙に似た熟紙で、紙面には墨界と空罫が施されている。
 書としての検討は次号とし、今回は料紙・書誌研究に徹する。この特色ある書誌と料紙は、中国なら唐代の書、日本なら奈良後期から平安初期までのものと判断して誤りない。そしてその書法と美学は、唐より日本を示す。当該時代の仏典は数千巻も現存するが、外典は、正倉院の聖武天皇「雑集」等五指に満たぬもの。しかも、このような能書による書作品は一点も現存しない。空海か否かは別にしても、日本の書史に第一級の新資料が加わった事実が重い。そして、「破体千字文」が千三百年守られてきたのは、弘法大師空海の書として尊貴され続けたが故である事も、決して看過すべきではない。


40.「書の空海」―仮称
  (大法輪閣、2008年刊行予定)
 31歳で入唐、歴史の表舞台に躍り上がった空海の、謎の前半生唯一の絶対資料「聾瞽指帰」を書から徹底的に分析、書誌学・歴史学も駆使して空海史の解明に挑む。帰国した空海についての最大の謎は、「請来目録」と「三十帖策子」の関係である。つまり「請来目録」の請来経が「三十帖策子」かどうかという問題で、それが提起されて40年、未だに解けていない。「三十帖策子」の分析と、飯島空海学の堆積を利して、この答えを出す。「空海の書から何が見えるか」、いわばその前篇たるもの。